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[朝日]中島砦 信長の思い 地域の誇り - 城の現代史 -

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/5/11 18:28
narupara  管理人   投稿数: 7555
asahi.com(朝日新聞社):[5]中島砦 信長の思い 地域の誇り - 城の現代史 - トラベル
http://www.asahi.com/travel/castle/NGY201005100008.html

織田信長が今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」から今年で450年。1560(永禄3)年5月19日、義元侵攻の報を受けて、清須城から出撃した信長は熱田、善照寺砦を経て到着したのが中島砦(名古屋市緑区)だった。

 側近の太田牛一が書いた「信長公記」によれば、信長勢は2千足らず、義元は4万5千、兵力は圧倒的であった。中島砦で信長は家来に「少数の兵だからといって多数の敵を恐れるな。勝敗の運は天にあるということを知らぬか」(一部抜粋、中川太古訳)とげきを飛ばして出撃、桶狭間で義元の首をとった。

 信長はなぜ勝ったのか? 義元はどこで討たれたのか? 合戦の内容については議論はつきないが、中島砦から出撃したことに異論はない。

 規模も形状も不明の中島砦だが、跡を示す「中島城址」の石碑が名鉄鳴海駅近く、旧東海道沿いの伊藤正巳さん(74)の敷地内に立っている。庭の一部だが、別に入り口を作り、だれでも気軽に見学できるようになっている。

 石碑の表には名古屋にあった旧陸軍の「第三師団長安満欽一書」とあり、裏には当時の鳴海町長の名前と発起人らの名が並ぶ。そのうちの一人が伊藤さんの曽祖父だ。

 言い伝えによると、もともと伊藤さん宅の敷地内には中島砦の守将とされる梶川平左衛門を記念する小さな碑があり、1927(昭和2)年になり、約2メートルの石碑に建て直した。戦後すぐまでは紅白ののぼりを立てた自宅に、近所の人たちが高張りぢょうちんをもって集まり、祭ってきた。伊藤さんの代になってからは家族だけで慰霊するようになっていった。

 その慰霊祭と石碑を、地域文化振興に役立てようと考えたのが、伊藤さんと近くで絞り製造業を営む近藤典親さんだった。名古屋市に合併後、鳴海の文化が失われつつあることを嘆いていた2人は「地域文化を守る会」をつくり、慰霊祭に地元の人を招き、地域の行事にすることにした。

 行事は今年で5回目。19日は夕方から尺八や琵琶などを演奏して戦いに思いを寄せる。2人は「歴史的に有名な合戦の出撃基地が自分たちの町にあることを特に子供たちに知ってもらいたい。中島砦での言葉通り、信長は劣勢でも決してあきらめなかった。その強い気持ちも伝えられれば」と話す。

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