また会えたのがうれしくて、つい発してしまう。代表的な名古屋ことばの一つだ。その優しく、温かい響きにこもるのは、相手への深い親しみと心遣い。最高のもてなしを追求し続ける花柳界では、さらに特別な重みを持つという。
初春のにぎわいが続く熱田神宮(名古屋市熱田区)。今月8日、粋な黒い着物でそろえた一団がしずしずと鳥居をくぐった。
名古屋の芸舞妓まいこが所属する「名妓連組合」恒例の初参り。先頭を歩くのは、舞妓歴3年の京けい(本名・下村萌香)さんだ。本宮で手を合わせ、「お客さんに親しんでもらえるよう、お稽古を頑張ります」と誓った。
芸事を磨き、少しずつ客との信頼関係を築くのが芸者の道。名古屋の花柳界には、そんな日常に欠かせない言葉があるという。
「やっとかめだなも」。「お久しぶりねえ」と相手に親しみをこめる方言だ。由来は「『やっと』会えた」や、「人のうわさも七十五日」より長い「『八十やっと日目』に会えた」との説がある。江戸後期には使われていたとされ、伝統芸能の世界に今も自然と息づく。
先輩たちが何げなく、しかし、心から発するこの言葉から京さんが感じるのは、歴史の重みだ。
「未熟な自分には使えない。芸者さん一人ひとりの経験と、花柳界の血と涙がこもった言葉だから」
名古屋市緑区出身。中学時代、短期留学した英国で日本の伝統芸能について尋ねられたが、何も知らなかった。世界に通ずる「着物での仕事」に興味を持ち、花柳界に憧れた。大学1年の秋、偶然見かけた芸妓に思い切って直談判。大学を休学し、この道へ飛び込んだ。
登竜門は名古屋芸者の定番「金の鯱しゃちほこ」。両腕と頬を支えに逆立ちして体を反らせ、約5秒間静止する。名古屋城の鯱を表現する力業の芸だ。
体の柔らかさが幸いし、2週間の特訓でクリアはしたものの、ゴールは見えない。日本舞踊に鳴り物、三味線、長唄。叱られて泣き、思い通りに出来ないもどかしさに泣いた。慣れない生活で体調を崩し、一時は入院もした。
お座敷には簡単に呼ばれない。鬢びん付け油で美しい曲線を描く日本髪の髪結い師を探したり、春夏秋冬を象徴するかんざしを手作りしたり。自分らしさを追求し、ただ前を向いた。指名がかかり始めたのは、2年目になってからだ。
しかし、いざお座敷に出ると、指先からつま先まで、神経をピンと張り詰めた先輩の動きに圧倒される。客との会話に困ることもある。「お稽古に終わりはない」。そう自分に言い聞かせる日々だ。
尾張徳川家の城下町として発展した名古屋。7代藩主・徳川宗春は祭りや盆踊りを奨励し、積極的に芝居小屋や遊郭を認めた。これが「芸どころ」の礎となり、戦前には3000人の芸者が花街を彩ったと伝わる。
しかし、財界の料亭離れ、旦那衆の減少でその数は年々減った。1958年からほぼ毎年続いた自主公演は2000年に中止。稽古や上下関係の厳しさから担い手も定着せず、現在の芸舞妓は19人にとどまる。
そんな業界の危機感から、11年に始めた公演が「やっとかめの会」。名古屋芸者の趣を伝える言葉として、その名が付けられた。
会は研さんの成果を披露できる貴重な場。そこで客は低料金で気軽にお座敷芸を楽しみ、芸舞妓と触れあえる。年1回の舞台は、常に団体客や家族連れで満席だ。
4年目を迎えた京さんは、連日お座敷の予定がびっしり入る。着物を新調した新年、「実り多い年に」との願いを込め、髪に稲穂のかんざしをつけた。目指すのは、あでやかに演じ、客と心を通わせられる本物の芸者だ。
「伝統を継ぎ、残していくのが私の役割。頑張って、いつか奇麗に『やっとかめだなも』と言えるようになりたい」。名古屋芸者の誇りを胸に、歩みを続ける。
◇「名古屋甚句」刻む碑
名古屋市熱田区の熱田神宮は、古事記や日本書紀に記された三種の神器の一つ「草薙神剣くさなぎのみつるぎ」をご神体としてまつり、年間約670万人が参拝する。境内の石橋「二十五丁橋」のたもとには、名古屋の芸者が今も唄と踊りを受け継ぐ「名古屋甚句」の碑が立つ。刻まれた歌詞は、幕末から明治にかけて、独特の節回しで流行したお座敷唄だ。
名妓連は2011年から年1回、普段の稽古場で自主公演「やっとかめの会」を開く。今年1月には、東海地方で唯一、寄席を楽しめる「大須演芸場」に初めて出演した。
やっとかめ 名古屋市 心通わす芸 努力の証し :地域 :読売新聞(YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/CO011531/20160123-OYTAT50019.html