鳴海城跡公園

2011/10/8 13:01 投稿者:  narupara
鳴海城(なるみじょう)は、かつて愛知県名古屋市緑区に存在した城である。別名「根古屋城(ねごやじょう)」。

 応永年間に足利義満の配下であった安原宗範によって築かれた。その際にこの地にあった成海神社は北の乙子山に移された。宗範の死後、廃城になったといわれる。
 天文年間には織田信秀の支配下にあり、配下である山口教継が今川義元に備えるべく城主を務めていた。しかし信秀が没すると、息子の信長を見限った教継は今川氏に城ごと寝返った。その後、教継は息子の山口教吉に鳴海城を任せる。天文22年(1553年)、信長は800の兵をもって鳴海を攻めるが落とすことができなかった。やがて教継父子は義元により切腹に追い込まれたため(信長の計略によるともいわれる)、義元は代わりに岡部元信を城に置いた。これに対抗すべく、信長は永禄2年(1559年)ごろに鳴海城の周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築いた。
 永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いが起こるが、今川側が次々と敗れていく中で鳴海城だけは落ちることは無かった。信長との交渉の結果、元信は義元の首級と引き換えに城を明け渡すという条件を呑み、ついに城は信長の手に落ちた。戦後、佐久間信盛・信栄父子が城主をつとめ、天正末期に廃城になったといわれる。現在でも彼の名にちなんだといわれる「作町(さくまち)」という地名が城下に残っている。
 城の規模は記録によっては一定しないが、丘陵の西に立つ東西に長い城郭であったようだ。たとえば『鳴海誌』によると「東西75間半、南北34間」とされている。現在城があったとされる場所は、道路を隔てて西側の城跡公園から、天神社のある東の小さな高台あたりといわれる。これらには碑が立っているほか、近辺にある東福院という寺院には、鳴海城の廃材で造られたという門が存在する。それほどはっきりとした遺構は残っていないが、公園の近辺には空堀や土塁状の地形が存在する。

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