至言は耳に忤らいて、心に倒らう
―至言忤於耳、而倒於心―
- [原文](韓非子 難言)
- 至言忤於耳、而倒於心。
- [書き下し文]
- 至言は耳に忤らいて、心に倒らう。
- [原文の語訳]
- 道理にかなった言葉は耳に痛く、素直に受け入れにくいものだ。
- [解釈]
- 普通、当たり前の事を言われると耳に痛く受け入れ難いものです。良薬は口に苦しともいいます。
- 痛いところをつかれたり、見抜かれてしまうとなかなかそれを認めたくない、認めてしまうと自分の立場がなくなってしまうと考えてしまうものです。
- 特に言われる相手によって感情的に変わってくるものです。その辺り「周りは皆先生(非我而当者吾師也)」という気持ちや「誰が言ったかよりも何を言ったか」として、まずは一旦受け止める必要がありそうです。
- 言われて当然のことをしてしまっていることを素直に認める勇気も必要です。
- 良かれと思ってやったことでも、道理に外れたことであれば指摘されます。そこで良心を優先し理に反してでも貫ぬか、理をもって辛くても心を鬼にして正すか葛藤となるかもしれません。ただ、先のことを考えれば例外を作ることは混乱の原因となるのです。
- できる人は言われたことを素直に受け入れることができるのです。
- 論語に「六十にして耳順う(60才になり素直に耳を傾けられるようになった)」とありますが、早い越したことはないですね。
- 一方で進言する方も、できるだけ相手が受け入れやすいように言葉を選ぶことも大事です。そのままズバリではなく、例えば他山の石を使って遠回しに感づかせたり、聞く相手立場や心情を酌んで行いたいものです。
- 自分に都合の良い言葉や褒め言葉ばかりを聞き入って、耳障りの悪い言葉は聞く耳を持たなかったり、すぐに癇癪を起こすようなトップには困りものです。
- [参考]
- 至言は耳に忤う(しげんはみみにさからう)の意味|ことわざデータバンク【一覧】
[中国古典一日一言]
平成27年(2015年)5月1日から平成28年(2016年)4月30日までの今日の一言は「中国古典一日一言」守屋洋(著)から、同月同日の一言をもとに自分なりに追記や解釈して掲載しています。
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わかってはいるのですが…
わかってはいるんですよ!
フラットな感情で建設的な話ができる相手 限定になってしまいますね〜
そこに負の感情や話の論点がすり変わったりすると耳を塞ぎたくなります
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