「送迎はさっぱりと」往者不追、来者不拒

往く者は追わず、来る者は拒まず

―往者不追、来者不拒―

[原文](孟子 盡心下)
往者不追、来者不拒
[書き下し文]
往く者は追わず、来たる者は拒まず
[原文の語訳]
去って行く者は去るにまかせて後を追わない、来る者はどんな相手でも拒まずに受け入れる。
[解釈]
由来は嫌疑をかけられ皮肉られた弟子に対する孟子の返答で「例え嫌疑をかけられるようなことをする弟子であっても、とにかく自分を慕ってきたのであれば受け入れているし、また別の人物についていきたくなれば行かせる考えだ」と。
現代的には「私の所には誰でも弟子入りできるし、一旦弟子入りした者でも、思想的に合わなず別の宗派に移るのは一向に構わない。出て行った者を私は恨むつもりはない。」で、これは宗教でなくても、人同士や組織にでも当てはまると思います。
自分を慕ってきたのに「下心があるのではないか」と勘ぐったり、自分のもとを去るときには「裏切り者」とか「やはり踏み台だったか」などと考えずに、迎え入れるときも送り出すときも、ドライというか寛容な態度であれば、相手も戻りたいときに戻ってき易いですよね。
「自分を必要としているときは頼ってもらえればいよし、頼りないと思えば他の人に頼ってもらってよい。」そんなことをされた普通は妬みがちになりそうなところですが、寛容な心をもつ余裕ができるといいですね。
SNSでフォロー数や友だちの数の増減に一喜一憂して、そのうちに「SNS疲れ」という言葉が出てきました。これもネット上であれ人間関係にこだわっている影響かもしれません。
ある商品を販売する際に、万人に買ってもらえなくとも「必要な人に買ってもらえればよい」という考え方、不買運動に対してもそうかも。
師弟関係が厳しい道の世界はどうなんでしょうか。弟子が新たな分野に挑戦しようとした時に、素直に送り出せる師匠でいてくれるとよいと考えますが、一方で真道を極めてほしいところに他の道からの心道が入ることで、伝承されてきた本筋が置き換えられることを懸念する人もいるかもしれません。
政治だとこういう場面のリーダーの資質(求心力や人柄)が垣間見える瞬間になっていますね。
[参考]
【座右之銘・11】『往者不追、来者不拒』 – 限りなき知の探訪

[中国古典一日一言]

今日の一言は「中国古典一日一言」守屋洋(著)から、同月同日の一言をもとに自分なりに追記や解釈して掲載しています。

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