「巡り合わせを大事に」天道是邪非邪

天道是か非か

―天道是邪非邪―

[原文](史記 伯夷伝)
儻所謂天道是邪非邪
[書き下し文]
儻(ある)いは所謂(いはゆる)天道是か非か
[原文の語訳]
もしかすると、世間で言う天の道ははたして正しいのか正しくないのか
[解釈]
一文は、悪辣な暴君だった殷の紂王(ちゅうおう)を武力で倒した周の武王に対して「非道だから止めましょう」と意見した兄弟は、周の世になって「われわれは非道な行いをした周の食糧は口にする訳にはいかない」と言い、首陽山に篭って蕨(わらび)を取って食べ、ていましたが、最後は栄養失調で死んでしまうという話から「どこにもこの兄弟には落ち度はないのに、どうして天は善人を見放したのか」とそれまでの一般的な考え方に司馬遷が疑問を呈したものです。
功労者の名が知れ渡るのは、それを取り上げる人がいるかどうかだったり、時運にもよるものです
「自分はこんなに頑張ってるに」と思う時や「若くして惜しい人をなくした」などという場面では、ふっとこの言葉が浮かんできます。「最後に正義は勝つ」のが本当かどうかなのです。
努力や陰徳を積んでいるのを正しく評価、ここぞという時に推薦してくれる人がいるかどうか、また自分も期待にこたえて活躍できるかどうかは巡り合わせなのです。必ず報われるという確証は残念ながらないのです。ただ、報われることを過大に期待していてはいけませんし、端から駄目だと腐っていてもいけません。巡り合わせはいつやってくるかわからないからです。
[参考]
高等学校古文/歴史書/史記/伯夷列伝 – Wikibooks
天道是か非か~~司馬遷の慟哭 – 虚虚実実――ウルトラバイバル

[中国古典一日一言]

今日の一言は「中国古典一日一言」守屋洋(著)から、同月同日の一言をもとに自分なりに追記や解釈して掲載しています。

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