「信頼される価値ある言葉を」信言不美、美言不信

信言は美ならず、美言は信ならず

―信言不美、美言不信―

[原文](老子 八十一章)
ここに原文信言不美、美言不信。善者不辯、辯者不善。知者不博、博者不知。聖人不積、既以爲人己愈有、既以與人己愈多。天之道、利而不害。聖人之道、爲而不爭。
[書き下し文]
信言は美ならず、美言は信ならず。善なる者は弁ぜず、弁ずる者は善ならず。知る者は博(ひろ)からず、博き者は知らず。聖人は積まず、既くを以て人の為にして己(おのれ)愈(いよいよ)有り、既くを以て人に与えて己愈多し。天の道は、利して害せず。聖人の道は、為して争わず。
[原文の語訳]
真実味のある言葉は美しくなく、美しい言葉には真実味がない。本当に立派な人間は口が達者でなく、口の達者な人間は本物でない。本当の知者は物識りではなく、物識りは本当には分かっていない。なにもかも他人のために出してしまうが、己れの所有はいよいよ増し、なにもかも他人に与えて、己れはいよいよ豊かである。天の道は万物に恵を与えて害を加えず、聖人の道は事を行なって人と争わない。
[解釈]
実直な言葉は素直で飾り気がないが、耳触りの良い言葉には真実味はない
「大巧は拙なるが若く、大辯は訥なるが若し」(老子 四十五章)にもありますが、口数が少なくても簡単でわかりやすい言葉のほうが本質をついていることが多い気がしまし、雄弁さを誇っていたりします。
「不安」にしても、原因を追求していくと本質は実はシンプルな一つのことなのに、さまざまな要素を自分の中で無意識のうちに重ね合わせて、結果として大きな不安を作り上げている場合もあります。
難しい言葉を分かりやすく簡単な言葉で伝えるためには、発する人が本来の言葉の意味を十分に理解した上で、それを相手にわかりやすいように自分の言葉に置き換えることをしています。そういう言葉こそが「信頼に値すべき言葉」ではないでしょうか。
テレビでカタカナ文字を随所に織り交ぜながら流暢に話しているのを聞いても、さっぱり意味がわからないことがあります。
カタカナ文字でも故事成語でも、意味を理解していなければ聞き手には届きません。ただ、そのキーワードを含んだ一文が簡単明瞭なのとダラダラと続くかでも違ってくるのではないでしょうか。短ければ、そのキーワードが頭に残りますが、長い話になると、そのキーワードもどこかへいってしまいます。
[参考]
第八十一章 信言は美ならず、美言は信ならず。 – 時すでにyas史

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