三國志 魏書十八 許褚傳

許褚の字は仲康、譙国の譙人である。身長は8尺を超え、腰回りは10周りもあり、容姿は雄渾として勇猛果敢な力持ちだった。
漢末の乱世に、許褚は少年や宗族数千家を集め、共に城壁を固め、賊からの防御を行った。当時、汝南の葛陂の賊が万人を超える勢力で許褚の城壁を攻めたが、許褚の軍勢は少数で敵わなかった。熾烈な戦いに疲れ果て、矢尻まで使い果たしてしまった。
そこで許褚は、城内の男女に、杅(もっこ)や斗(おけ)くらいの大きさの石を集め、四隅に置かせた。許褚はその石を投げ放ち、当たった者は打ち砕かれた。賊は進めなくなった。
食料が底をついたので、許褚は賊と偽りの和睦を結び、牛と食料を交換した。賊が牛を取りに来ると、牛は許褚の元に走り戻った。許褚は城外に出て、片手で牛の尻尾を引っ張り、100歩以上も歩いた。賊はそれを見て驚き、牛を取るのを諦めて逃げ去った。
このように、許褚の名は淮河、汝水、陳留、梁国一帯に知れ渡り、畏れられるようになった。

太祖が淮河、汝水一帯を平定する際、許褚は部下を率いて太祖に降伏した。太祖は許褚を見て感心し、「これこそ私の樊噲(樊噲は有名な武人)だ」と言って、即日都尉に任命し側近に置いた。許褚に従う俠客たちも虎のような武人と評された。

張繡の乱への出陣では、先陣に立ち数多くの首級を斬り取り、校尉に転じた。袁紹討伐の官渡の戦いでは、徐他らが謀反を企てたが、許褚が常に太祖の側近にいたため、恐れて実行できなかった。許褚が休憩に戻った日を狙い、他らが刀を隠し持って入ってきたが、許褚に気付かれ、戻ってきて彼らを殺害した。太祖はますます許褚を信頼し、行く先々で離さなかった。

鄴の包囲戦では力戦し功があり、関内侯の爵を賜った。韓遂、馬超の潼関討伐にも従軍した。北渡する際、太祖は先に兵を渡らせ、許褚と百余人の虎士のみを南岸に残し、後手を断った。馬超が万余の歩騎で太祖軍を急襲、矢が雨のように降り注いだ。許褚は太祖に「敵は多勢です。今のうちに渡りましょう」と告げ、太祖を船に乗せた。激しい戦いで、兵士が船に殺到し、船が沈みかけた。許褚は手を伸ばす者を斬り、左手で馬鎧を掲げて太祖を守り、右手で船を漕いだ。この日、許褚はかろうじて危機を免れた。

その後、太祖が遂、馬超らと単独で会談する際、側近は同行を許されず、許褚のみが同行した。馬超は許褚の力を警戒し、太祖を突こうと考えたが、許褚の勇名を聞いていたので疑って確認すると、太祖は許褚を指さした。許褚は睨みつけ返したため、馬超は思いとどまり引き下がった。数日後の会戦で馬超らを大敗させ、許褚自ら首級を斬り取り、武衛中郎将に転じた。「武衛」の号は、この時から始まった。
軍中では、許褚の力が虎のようで愚かしいと評され、「虎癡」と呼ばれた。

許許褚は慎重で法を重んじる性格で、言葉数は少なかった。
曹仁が荊州から朝謁に訪れた際、太祖がまだ出てこないので、曹仁が殿の外で許褚と会った。曹仁は許褚を呼んで座って話そうとしたが、許褚は「王将(太祖)がまもなく出られます」と言って、再び殿に戻った。曹仁は意に沿わず憤った。

ある者が許褚を責めて「征南の宗室重臣が、君(許褚)を呼んだのに、君はなぜ辞退したのか」と言うと、許褚は答えた。「彼らは重要な親族ではあるが、外藩に過ぎない。私は内臣であり、ここで話すのは十分だ。なぜ私室に入る必要があろうか」

太祖はこれを聞き、ますます許褚を可愛がり、中堅将軍に進んだ。太祖が崩御すると、許褚は号泣して血を吐いた。文帝が即位すると、萬歳亭侯に進封され、武衛将軍、中軍宿衛禁兵の都督に任じられ、非常に寵愛された。

初め、許褚の率いる「虎士」と呼ばれた者たちは、太祖の遠征に従軍した武者たちだった。太祖は同日に彼らを将に任じたが、後に功により将軍や侯に叙せられた者が数十人、都尉や校尉に任じられた者が100人以上にのぼり、皆が剣客だったのである。

明帝の即位と共に、許褚は牟鄉侯に進封され、七百戸の邑を賜り、子に関内侯の爵位を与えられた。許褚が死去すると、「壯侯」の謚号が贈られた。子の許儀が継いだ。

許褚の兄の許定も、軍功により振威将軍、徼外道虎賁都督に封じられた。太和の頃、帝は許褚の忠孝を思い、詔を下し褒賞を与え、更に許褚の子孫二人に関内侯の爵位を与えた。許儀は鐘会に殺された。泰始の初め、子の許綜が継いだ。

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