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雉本祭が斎行される

令和5年4月23日(日)、緑区浦里、鳴海プール南隣の浦里公園で雉本祭が斎行されたそうです。池田よしたか代議士のフェイスブックに投稿されていました。
自分は子どもの頃から「雉本公園」と呼んでいますが、現在は浦里公園となっているようですね。

雉本公園 - Google 検索

雉本博士の銅像

浦里公園(旧 雉本公園)に、鳴海小作争議の小作人側の理論的指導者であった雉本朗造博士の銅像が建っています。
雉本公園建設の碑銘には、「法学博士雉本朗造先生は、ここより約1,300米下流の天白川右岸名古屋市南区鳴尾町字八幡の名門に生まれた(明治9年1月11日)。幼少より頭脳明晰、東京帝国大学を恩賜の銀時計を拝受して卒業、ドイツに留学、京都帝国大学教授となり、傍ら大阪道修町に大日本法律研究所を主宰する。
大正8年鳴海に小作争議がおこり、先生農民の要請をうけてその指導に当たられる。
たまたま大正11年3月13日九州方面に旅行の帰路、瀬戸内海で船上より行方不明となり、不慮の死をとげられた。
翌年小作争議は円満に解決し、農民らは、先生の徳を偲んで銅像を建立した。
昭和48年11月石堀山よりここ争議発生のゆかりの地に移転して、この公園を雉本公園と名づける」と刻まれています。
銅像は博士の没後1年を経て小作争議も和解したことで、雉本博士への謝恩のため小作人組合の訴訟積立金約7千円余で銅像を建設することになりました。
大正13(1924)年5月製作にかかり、石堀山に建てる認可願を愛知県に提出しましたが、まだ全国に小作争議があり誘発する恐れありと許可されませんでした。完成した銅像は荷造りのまま置かれていました。
ようやく認可がおり昭和5(1930)年4月27日銅像除幕式が石堀山において盛大に開かれました。
この博士の銅像は昭和48(1973)年11月雉本博士銅像維持会の人々によって、石堀山から争議発生ゆかりの浦里に移されました。

https://www.city.nagoya.jp/midori/cmsfiles/contents/0000057/57984/5.2bu1syou-2.pdf

雉本博士の銅像

雉本博士の銅像

 

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